始終至智への旅
筑紫哲也
題字:筑紫哲也第29回 藍より青く
2008年6月30日(月)
こんにちは、筑紫哲也です。
昔のお遍路さんのような難行苦行をやっているわけでもないのに、四国に入ってから足がなかなか先に進みません。
さて、四国最後の県は徳島県です。
今日は、本来はたいして込み入ってはいないのですが、少し込み入っているかのように見える話をします。
「青は藍より出でて藍より青し」という、例の「出藍の誉れ」のことわざから、徳島県を連想するのは私だけではないと思うのですが、どうでしょうか。
吉野川、通称「四国三郎」には、藍染めで有名な、そしてその名も藍住(あいすみ)町という町もありますし……。
吉野川の対岸の河口近くに、徳島県の県庁所在地、徳島市があります。
実は、そこでひとりのガラス工芸家が創り続けているガラス食器が、わが家の日常のガラス類の「主力」を占めています。
色は青一色。
とは言っても、「藍」と「青」にちがいがあるように、「青」もいろいろです。
「青い」「碧い」「蒼い」――。それぞれに感じがちがいますね。わが家の卓上の、大泉恵(おおいずみけい)という男が創り出している「青」も、さまざまなグラデーションを持っています。徳島産ですから、モチーフは当然「藍より出でて」だろうと思われがちですが、実はそうではないのです。
彼がヒントを得て、描き続けているのは、沖縄のさんご礁の海の青、その変化(グラデーション)なのです。
しかも、彼がこの「青」に着目するきっかけには、どうやら私が関係していたようなのです。
1970年代の初め、私が初めて会ったころの彼は、行方の定まらない20代の若者のひとりでした。当時は、ビートルズが彼らの心をつかみ、「ヒッピー」という若者像の全盛期でした。
所在なげな若者に、かつての自分を投影しながら、年下の友人たちと他愛のない遊びで時間を過すのは、私の長年の性癖。ゆえに、そのときが初めてでも、終わりでもありませんでした。沖縄から久しぶりに本土に戻ってきたばかりの私が「恵ちゃん」(大泉氏)に「琉球ガラス」の話をしたことを、自分では記憶していません。しかし、私が普段から沖縄の米軍統治が生んだ新しい工芸品である「琉球ガラス」のことを、沖縄の「しなやかな抵抗」の例として、よく口にしていたのはたしかです。
米軍は戦後、「コカ・コーラ」を始めとした清涼飲料水など、さまざまな色のビンを島に持ち込み、そして使い捨てました。
それを溶かして造型しなおし、米兵へのおみやげ品に再生した――というのが「琉球ガラス」の起源でした。もともと民芸品や豊かな風土があった島ですから、あの素朴な味合いを生むことができたのでしょう。
さて、話はここで徳島に戻ります。
何をやっても長続きしたためしのなかったかつての若者が、ガラス工芸家に変身して、私の前に姿を現したのです。とは言っても経済的才覚が急に身につくはずもなく、奥さんの実家のある徳島に安住の地を見出した、というわけです。
23歳の時に始めて、今年で36年。基本的には青一筋。
彼の人生を私が惑わした(?)義理があって、その作品を求め続けているわけではありません。彼の人柄を反映した、ゆったりとした表現と変容し続ける「青」が好きだからです。
「コバルトは発色しやすいし、値段も安いから」と、テレ屋の本人は「青」への執着を説明するのですが……。
(どんな作品かご覧になりたい方は「工芸店ようび」のホームページに、大泉恵氏のコーナーがあるので、そちらをどうぞ)
余禄
どういうわけか、徳島県は、私が飛び抜けてお世話になったビッグネームが3人もいる県です。
三木武夫氏と後藤田正晴氏。このふたりは「阿波戦争」などと呼ばれる対立を演じた政界の大物なのに、ご両所ともに親しくさせていただきました。やりようでは、そういうことが可能なのが「ジャーナリスト」という職業のありがたいところでしょうか。
もうひとりは、今も何かと言えば甘えたり、知恵をお借りしたりしている人生の先達、瀬戸内寂聴さんです。
筑紫哲也からおたずねします
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たくさんのご回答ありがとうございました。


